遊びをせんとや生れけむ 戯(たはぶ)れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ
舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん 真に美しく舞ふたらば 華の園まで遊ばせん
‐梁塵秘抄‐
上記のフレーズをご存知の方は多い。[梁塵秘抄]は今様歌謡であって後白河法皇が平安時代末期に編んだと伝えられているそうです。今様歌謡は「今ごろの流行り歌」で流行歌。「後白河法皇ともあろう御方が流行歌か」と捉えるべきか、流行歌は上流階級から広まったと捉えるべきか、ともあれ、当時の心情を現代に伝える今様歌謡だと言えそうです。
人工物の玩具を介する遊びが現代っ子には常態化していて、蝸牛で遊ぶことはなく、馬も牛も生活の場で見掛けることなく、ゴキブリを見つけると殺しまわる現代人に想うのは生活環境に応じて生態を変える人間のようで、しかし昆虫や小鳥や大小の生き物に本能的に反応してみえる姿からは人間の子の本質は平安時代も今もちっとも変っていない。
蝸牛を取り囲んで騒いでいる子供たち。押してみたり引張ったり、角を縮めて殻に閉じこもろうとする蝸牛だ。生活の習慣は遺伝子レベルに組込まれて人間の本能となったのだろうか、どの世界でも・いつの世でも子供たちの関心は支配すること。ただ生き延びるだけでなく悦楽の日々を愉快に過すために世界を支配するのが野獣の掟 = 弱肉強食の法だ。
他者に抜きんでる力を具えた者たちは弱い者を支配し従えて我が世の春を謳歌できる計算で、実際美味いモノを口にしながら恵まれた環境で他者に崇められて長い年月をヌクヌク過してきた者たちにすればこの美味しい暮らしを手放せなくて弱肉強食を当然のように想ってしまって、相手を弱いと判断したときは野獣の本能を剥きだしにすることになる。
このように強い者は己ひとりの力だけでも世渡りできるだろうが、弱い者は弱肉強食 = 野獣の掟では分が合わない。食われ搾取されてばかりでは暮らしは安定せず不安にいつも襲われることになるから、このような劣悪な環境は変えなければやってられないだろ?弱い者たちは弱い者が生きられるように環境を己らの都合の良いように変えるべきなんだな。
世界が生存に適しているからこそ強者にとっては弱肉強食の法で居心地が好いが、弱い者の生存に適した環境に変えられたら、そこは弱い者の生存に適した環境・社会だ。いわゆる「適者生存の法則 = 弱い者が安心して暮らせる社会」の実現だ。「適者生存の法則」は弱い者たちに役立つ法であり、[知恵をつけた弱い者たち = 市民]と知るべきだろう。
弱肉強食の法は個人主義思想へと進み、適者生存の法は集団主義へと進んだと考えるべきだ。西欧の思想は個人主義と集団主義の二つをベースに置くと聴いたことがあるがその通りだと思う。だがこのロジックだけでは問題があって、延いては現代世界の紛争の原因になっているのだから根本的な改善がなされなければならず、革新的な哲学が欠かせない。
弱い者たちよ、市民たるあなたよ、私たちの社会に弱肉強食の法を持ち込ませてはならないよ。この世界は弱者のためには取って置きの優れた法、すなわち民主主義の法であまねく満たさなければならない。民主主義の法は個人主義思想でなく、集団主義の思想でもなく、弱い者たちが良く生きるための優れた智恵・道具であって、多数決などに堕して喜んでいてはならないよ。