痛いんです



なにか書かなければ、みたいな
それではダメ?

だけどもう始めてまして、どもスミマセン。...........痛いの痛いの飛んでいけーな感じ ?!

器用なのかな‥

私のブログは沢山あって、あれこれ見直すことをチョクチョクやっている。それでどのブログを観ても私らしくてブログが替わったからと云って私のキャラが替わる訳ではないから当然と云えば当然なのですが、今流の日本人は私の当然が通じないらしいのを感じている。私は私であって私以外の何者でもないという感覚は今流の感覚には愚かに見えるのかも知れないと、そんなことまで思われている。

もしかして、あなたは愚かに見られることを恐れますか? 😅

役者は舞台ごとにキャラを変えるだろうな。(役者の生き方に憧れる人も)行く先々でキャラを変えるのだろうか?目的に応じて 友人関係を使い分ける人は多いようで、あるグループで真面目と言われ、また別のグループで面白い人と言われ、軽いノリを見せたり、安心できると思わせたりと、次々とキャラを取り替えるのは器用でない私にはとてもじゃないが不可能‥というより価値観の違いにも思われる。

結局、愚行権を大事にしたいタイプの私で、賢く過ごしたいタイプの変形が今流かも知れないとも思われる。じっさい、賢く過ごせば楽しいに違いないと思えばこそ私は愚行権を行使している訳ですし、同じく楽しく思われるからこそキャラの使い分けの文化が罷り通っているとも云えそうです。テレビを観れば場面・場面に上手に合わせて楽しそうにハシャギ笑っているタレントたちに何時でも合える昨今。

KYが生活の一部になっている人は空気を読んでキャラを替えるのが当たり前で常識で、それが居心地の好さを保証しているのであれば愚行権など馬鹿馬鹿しくてやってられないだろうなと考えると納得したくもあるが、だけどそれは寂しさの先送りになっているだけでなかろうか‥などと思ってみたり、、あなたは如何ですか? しかも二重人格どころか多重人格になってしまう惧(おそ)れはないだろうか‥?
 
愚行権‥身近な私ごとですが思うままに綴ってみました。

黄金の新婦

記.2013/06/29


韓ドラ「黄金の新婦」も来週には最終回を迎えることになります。それにつけても醍醐味を知らない者は日本人に限らず世界中に大勢いるらしい。醍醐味を味わおうとしてベーゼしまくっても病むだけで意味はなく、この韓ドラの制作姿勢も「ベーゼ即ち醍醐味とは違う」という健全な視点に貫かれているのは安心して観ていられます。


多くの人はドラマを観る場合の条件として「面白さ」を重視するようです。しかもそれを当然視する風潮が強い日本人の文化らしい。面白い時間を過ごすのは幸せだし、人は幸せでいたいから面白いドラマを観たがる訳で、それは恋する場合でも同じことで、好意を寄せている人に受け容れられたら幸せ感に浸れるでしょう。


食べ物で云えば美味しいほうが幸せ感を得られるし、私はお酒を飲んで幸せに浸れるけど、イヤなことを忘れるためとか憂さを晴らすためにお酒を飲んだりする人もいるようです。そんなことを考えると「人というモノは幸せを得るために生きているのだなあ」と私にはつくづく想われてならない訳です。


韓ドラを観ていて「究極の幸せを探し求めている」のを感じるのは私だけだろうか?今が面白ければ好いじゃないかと考える人はいるし、眼に映った楽しそうなモノを次々に欲しがる幼児の気持ちも私には解かるつもりで、それは解かるけれども大人には分別というものが当然育っていなければならないとも思える訳です。


お酒を呑むのもだけど、ケーキを食べるのでもそれは同じで、分別なしに飲んだり食べたりする心は不健康なことを知っているのが大人であり、醍醐味はウワバミのように呑むところに有るワケはなく、餓鬼のように食い散らすところに無いのも至極当然で、人として生まれたからには醍醐味を味わうべきで、幼児は大人へと育つべきなのでしょう。


このドラマのヒロインは人生の醍醐味がどこにあるかを肌で感じている。それは彼女が育った環境で自然に身に具わった哲学であり、それで彼女が「黄金の新婦」と称えられるのは当然だけど、この哲学に逆らうとき人は必ず苛立つ訳で、苛立てば苛立つほどに他者を苦しみに陥れる誤まった生き方をしてしまう。


何不自由ない暮らしをしているようでも誤まった生き方は他者を不幸に陥れるから、そこにいる他人も己も堪ったものでない訳で、次から次へと無間の苦しみの連鎖で心身をすり減らし、己の不幸を嘆き悲しみ、他者を憎み呪いながら互いにいがみ合って暮らす彼らが幸せ(醍醐味も)を味わうことは決してないこと、あなたにはお分かりになるでしょう。


ヒロインは韓国の伝統モチを習い覚えるのだけど、モチといっても日本の正月の餅でなく、大福餅とか団子をイメージしたほうが近そうです。甘けりゃ好いというのでなく、食べる人の幸せを祈る心で造られるヒロインのモチなのです。商業主義とか拝金主義者が作るようなモチでないのは、あなたもお分かりでしょう。

       

製パン王 キム・タック

記.2013/06/27

 
パン職人のドラマについても語っておきます。職人の魂はどうあるのが理想なのか? 決して失くしてならない職人魂というモノはなんだろうか?そういったことです。

 
韓ドラ『製パン王 キム・タック』は昨日が最終回だった。ドラマの核心は実に単純明解。パン作りに掛ける職人の想いと商業主義とのぶつかり合いを描いた哲学ドラマだろう。哲学のないところに満足は有り得ず、すなわち、哲学の視点抜きにドラマを鑑賞しても『製パン王キム・タック』は実に締まりのない詰らない内容なのです。

 
詰らないと云えば締まりのない人生ほど詰らないモノはなくて、人間の頭脳は高等に出来ているにも係わらず締まりのない生き方をすると人生そのものも詰らなく感じる訳です。詰らないのは(オツムが)緩んでいるのが原因だから生き方を正せば意義ある充実した日々を送れる訳で、だけど緩むと生き方を修正する気力はヘタルらしい。

 
ドラマはキム・タックを助ける側とキム・タックの足を引っぱる側で対立させているが、詰らない生き方に納得できない人たちはキム・タックの足を引っぱるのに嫌気が差して助ける側に回る。しかし緩んだ生活にドップリ浸かってしまった人たちは奈落の底に堕ちて苦しむことになるのは仕方ないと云えば仕方ないことなのです。

 
そういった哲学に準じた筋立てのドラマは観ていても安心できる訳で、私の期待を裏切らない韓ドラの本領発揮と言えそうです。パン職人の哲学はパンに関わった人たちが幸せになることにありますから、パンに関わった誰一人も不幸になるような事態は決して受け容れられないし、許されないことなのです。

 
商業主義には哲学がありませんから、己に関わった誰かが不幸になっても責任を感じない無責任な体質になっている。キム・タックの父親は哲学に無関心であって、そのために家族を不幸に追いやってしまいます。父親が無責任なのは(母親の)家庭教育に原因があるのは明らかであるが、それに気づくことはない。

 
この緩み歪んだ家庭教育を受けなかったキム・タックは、それが幸いに働いて商業主義の歪んだ考え方に染まることなく、パン職人としての哲学をしっかりと血肉に染める機会を得ることになります。歪んだ環境に染まらないためには旺盛な反骨精神が欠かせないが、それにしても親・家庭からの悪影響を排除するのは容易ではない。

 
キム・タックの母親は住込みで働いていたときに主人の子供キム・タックを身ごもった社会的に弱い立場の女性。弱い立場の人が正義に生きるときは悪環境下での居場所を失うことになる。豪邸を出た彼女は苦しい生活のなかでも息子キム・タックを真っ当な人格者に育てようと努める。つまり母親は哲学を持った女性な訳です。

 
ドラマは哲学を持って生きる弱者・貧乏人側のパン職人と、哲学をもたない商業主義者・拝金主義者の対立構図になっていて、人生の醍醐味を味わうのはそのどちらかという骨組みに肉付けしたストーリーになっている。父親はお人好しだが緩い生き方に染まっていて正邪の判断力はないが、美味くて健康に良いパンを作りたいと願う想いだけで救われそうです。

 
商業主義に日本中が冒されているなら、結局は焼きなおすしかないのかも知れないなあ。いやいや、それは余りに哀しいこと。そんな想いで書いてみました。

       

♪.味わい

記.2013/06/26


私たちは究極の美味しい味を求めるものだし、美味しいモノを味わうとき舌鼓(したつづみ)を打つと表現するように食べ物と音楽は太古の昔から極上の醍醐味を佳しとする。音楽家は究極の旋律を求め・究めようとし、料理人は究極の味を究めようとし、園芸農家は美味しい作物を育てることに熱をあげる。


音楽家も料理人も園芸家も究極・極上の味わいを当然知らず、それで日々切磋琢磨することになるが、己が見つけ・引き出した味はやっぱり嬉しいものだろう。嬉しければ他人にも知らせたい、己の歓びは他者にも感じて欲しい、そしてその味を認められ・誉められたいだろうし、そんな気持ちは私も分る。


なんの根拠もなしに自慢する人はいるし、なんの根拠もなしに卑屈になる人もいる訳で、どうしてそのように好い加減な評価で一喜一憂するのかと呆れるしかないが、自慢する者も卑屈になる者もドチラも醍醐味を知らずに極上を誇ろうとするところに自信の裏付けはなく、精々が虚勢を張るしかない。


リストがアルカンの前で演奏できなかったのは結局、アルカンにリストの虚勢を見抜かれたからという事になりそうだ。音楽を素直に愉しめば良いものを、リストは一目置くアルカンの前では後ろめたさに冷や汗を流していたのだろうか。料理も園芸も音楽も演奏も自分(私)が愉しむものだと私は思っている。


あなたに合わせて味わいを愉しもうとすると、私はきっと真の悦びを得られない。五つ星か何か知らないが、そんなモノを美味さの後ろ盾にするアナタは味覚音痴に違いないのに、味覚音痴のあなたの舌に私の悦びを委ねて好い訳はなく、それは音楽も演奏も草ひきに於いても須らく通ずる理(ことわり)ではないだろうか。


料理人が自信を以って提供する味を愉しんで良いし、自分で料理した得体の知れない味わいを愉しんでも良いし、大好きな恋人が奏でる音色に幸せを覚えるのも正常な感覚だと思う私。じっさい、レシピ通りに作っても味は千差万別で、譜面どおりに弾いても千差万別の音色が流れるのが現実ですからね。


昨日、ラジオから流れる広瀬悦子氏の演奏によるアルカン作曲の「風」「鉄道」を聴きながら想ったことの真相は結局、以上のようなことだった。氏の演奏を聴きながらアルカンの曲への関心は強まり、広瀬氏以外の演奏も聴いてみたいと想わせられた。「風」は殊に巧みな指捌きが欠かせないがそれだけでは物足りない私。


譜面どおりに弾くだけなら巧みな指捌きがあればいい。結局、アルカンの曲は演奏家一人ひとりの持ち曲になるのだろうなあ~♬ そんなふうに思う。それはアルカンに限らず、勿論、演奏家に限らず、一つの譜面から指揮者ごとに異なる音色が流れる訳で、カラヤンと小澤征爾氏では全く異なる音色なように…です。


醍醐味はレシピとして表せないし、醍醐味は譜面に表せない。演奏家ごとの味があり、指揮者ごとに異なる美味い味はあっても、醍醐味はレシピにも譜面にも表せない永遠の味わいなのだろうなあ。そんなことを思って、アルカンが好きになってしまった私なのです。)^o^(

       

♪.嵌まる

記.2013/06/26


昨日のNHKラジオ「ベスト・オブ・クラッシック」に想った。
夕食後のひと時、聴くともなしに聞いていたのだが、
「リストはアルカンの前でのピアノ演奏を尻込みした★」


ショパン・シューマン・リスト・アルカンは親交があったようで、恐らく共演・協奏もした仲だったろうね。いずれも得意然として演奏しそうな有名な音楽家ばかりで、いったい誰に臆すことがあろうかと私などは思ってしまう。


いやいや、リストに限らず誰でも苦手意識はあって不思議はないが、私にはアルカンに臆したリストの話がとても面白く思えてそれで、リストでも尻込みしたのなら日本のピアニストは如何ばかりか…そんなことを想いつつアルカンの作曲した数曲を聴いた私。


昨日のピアノ演奏は広瀬悦子氏。彼女がリストに劣るなどと私はちっとも思わないし、作曲家と演奏家を比較すること自体がそもそもナンセンス、そんなことを思ってジックリ考えてしまった。いやいや、ピアニスト同士を比較するのさえ実にナンセンスに思えている私なのだ。


もちろん、醍醐味に嵌まる訳ですけどね。

       

(韓ドラ)福寿草

記.2013/06/30


韓ドラから、
もう一本、『福寿草』を引用します。最新版を観ることはしませんが、私は韓ドラのファンで毎回愉しみにしています。ドラマは6月21日に始まったばかりで私に結末の予測は付きませんが、キーワード「醍醐味」の視点で書いておきます。


今回ご紹介する福寿草は特異な花のようです。花弁を開閉させて太陽光を花の中心部に集中して得る高等な機能を具えます。必要がない夜は閉じます。初春に開花、夏は枯れて地下茎だけが生き、翌年の初春にまた開花。花言葉は「永遠の幸せ」でメデタイ花とされますが毒草です。そういったところに怪しい気配を感じるのは私だけでしょうか?


毒に当った人は正常でいられない。悪女役ユラはどうしてヨナを憎むようになったかと云うと、「毒に当った」としか言いようがないと私には想える訳です。それで考えてみると、悪女役ユラは心が広いことはないにしても、特別悪い女性でも決してない。どこにでもいる普通の女性に違いない。ユラに限らず、大概の女の子は甘い恋を夢みる訳で、素敵な王子に「お姫様だっこ」されたい乙女の気持ち、あなたも解かるでしょ?


スポットライトを一身に浴びたいと想うのは人間の本能かも知れないが、このドラマのヨナは他人に嫌われるのを(無意識にせよ)強く恐れているようで、そんなヨナが言うべきことを言わないで、いつもいつも綺麗ごとばかり言ってるようなら私には八方美人に思えてしまうが、あなたはどうだろうか?そんな言動をする人があなたはお好みだろうか?もちろん、ヨナは毒を吐く訳でなく、寧ろユラが毒を吐きつづけるストーリーです。


毒花・福寿草に悪気は少しもなくて、陽の光・スポットライトを浴びようと花弁を開閉させても少しも悪徳である筈なく、福寿草の見掛けの美しさを誰が愛でようが福寿草の罪でないのは論理上も明らかで、それなら毒花・福寿草を八方美人と貶す筋合いは誰にもない訳です。それならばこそ福寿草にはヒロインになる資格が十二分に具わっていると断言できる。それでヨナは本当は福寿草なの?八方美人なの?


福寿草は自分からは決して毒を吐かないし、初春だけ陽の光を浴びて満足した後は地下茎だけで暗闇に過ごして佳としている。ヨナが福寿草なら毒を吐かずに静かに暗闇で過す訳で、受け狙いの八方美人なら恐ろしい本性を隠しきれずに一泡吹かそうと行動に移る訳です。ドラマの顛末を知らないままでは何とも断言できない私なんですけど、もちろん、ここで私はヨナを非難したい訳でなく、ユラを弁護している訳でもありません。


言うべきことを言わなければ誤解が誤解を生んで、問題はどんどん大きく脹らんで被害は多方面に及ぶことになる。ユラがヨナの毒気に当ったというのはそういうことです。精神的に未成熟ゆえにユラはヨナの毒に当ったと云えるが、ヨナが言うべきことを言ってたら未熟なユラと云えどもヨナの毒気に当らなかった、否、ヨナの毒気がそもそも中和されて皆が安全でいられた筈でした。結局、ヨナの沈黙は金でなくて毒に劣化したのです。


問題が発覚する前にヨナは「ナイショにしてね」と頼む悪癖がありました。職場の同僚からは「やましくなければ堂々としたら良い」と忠告を受けていたヨナでした。堂々とできずにコソコソと動きまわるヨナは周りの人々の信頼を失います。そのヨナの言動はお人好しというレベルでなく、保身に走っている狡い行為と理解されて当然でした。ヨナは頭が悪いという人がいるかも知れないが、IQは低い設定でないように思えます。


与えられた資料だけで課題をこなすように上司(室長)に命じられていたにも関わらず、極秘文書を先輩に出してもらって課題をこなし、何も知らない上司に誉められたときも言うべき事実を報告しようとせず、誉められたことを単純に喜んでいたヨナを理解するのに苦しんだ私でしたが、悪女役ユラが狡いことをしても私は然も有りなんと考えます。ヒロインの狡い行為だけは納得できず、私はどうしても理解に苦しむのです。


ドラマは始まったばかりで、今後の展開で私の納得できるストーリーが顕われると思いたいし、あるいは私の理解するようなストーリーが翻訳の段階で誤訳されたのかも知れません。ともあれ、狡くて八方美人のヒロインを憐れむとしたら、その狡い人間が堕ち往く先の地獄絵を想像して憐れむ訳で、それはもうヒロインと言えるシロモノでないのは言うまでもない。あなたはそれでも単純にヨナをヒロインと思う人だろうか?


韓ドラ『福寿草』が始まって早々、このようなことを私は感じた訳ですが、これがいつも観ているサン・テレビでなく、今回は関テレ提供なのが少々気になるところでもある。局によって翻訳は丸っきり違うものなのか…。醍醐味、今回のは人生の醍醐味ですが、偽物・八方美人的な生き方、言うべきを言わない生き方を佳としては醍醐味を味わえる訳がなく、当人だけに止まらず、周囲までも地獄に堕して不幸にしてなるまいという結論。


それともう一つ、ヨナが育った環境からヨナが育った訳であり、それはユラの場合も当てはまり、あなたの場合も育った環境があなたに色濃く影響を及ぼしている訳で、ヨナもユラも育った環境に原因があるとして己を被害者とする考え方もあるが、己を始まりとして未来は決定すると知るとき、私の未来は私の手のなかにあり、あなたの未来はあなたの手になかにある訳で、それなら己の未来は己でどうにでも出来て、醍醐味は確実に味わえる。


お姫様ごっこも楽しいけれど、楽しい夢にウツツを抜かしては悲しい明日しか望めなくなる訳です。いずれにしても醍醐味を味わうか、それとも地獄の苦しみを味わうか、それはあなた次第なんですなあ。それなら、誰を恨むこともありませんって。


韓ドラ『福寿草』についての記事を追加しております。よろしければ次のアドレスでお読みになってくださいませ。

 
http://ouch.doorblog.jp/archives/30251770.html (福寿草/相関図


       

イソップ寓話から

記.2013,6.24



昨日、種蒔きしながらイソップの寓話を想いだした。それは農夫が亡くなる時に息子たちを枕辺に呼んで言い聞かせた話。


農夫はブドウ畑を持っていたが息子たちは誰も手伝わなかった。いくら働き者の農夫でも一人の力には限界があるということは私にも理解できる。働き者の農夫でも思うに任せない農作業であれば、畑仕事に素人の私が失敗したからって恥しいとはちっとも思わなく、プロの園芸指導者の指南を結局仰ぐことになっている。


ネット検索で探した指南書はいずれも丁寧で、本職が読んでも役に立つ内容に思われる。いや、本職が読んでこそ現実に役立てられる本物の説明書きかも知れないと、昨今はそんなふうに想っている私。それだから私はイソップ寓話を想い出したのだけど、寓話は怠け者息子たちへの名指南書だったと思われる訳。


畑仕事に全く無知の怠け者息子たち。彼らは畑仕事に関心がある訳でなく、遊び暮したい欲深な心なのです。私のスタンスは畑仕事に興味を持って資料を探しては読み漁っていて…あなたにはお解りになるだろうか?怠け者息子たちは豊かになった結末だけど、興味を以って取組む私は失敗ばかり。アハッ !(^^)!


そんな私が考えたこと、仕事は好きだったが無力な農夫…彼は実に私なんだなあ。農夫は種を蒔いて肥料を撒いて息切れしたんだ。そんな農夫だが好きな畑仕事をできて満足だったし幸せだった。好きなことして生涯を終えた農夫は恵まれた人生だったのは間違いない。即ち、感謝の心で幕を引いた農夫だな。


感謝の心が息子たちへの遺言の言葉に顕われたのだろう。感謝の心を持たない者がいったい誰に役立つだろうか?そんな者は子にも伴侶にも…結果的に家族にアダをなすのは火を見るより明らかで、誰かに役立ちたいと想うより、ともかく自慢したい・誉められたい・得したいと思いながら日々を送るしか知らない。


件の幸せな農夫は仕事を息子たちに委ねるに際して、己の仕事の不足分を簡潔に言い遺した。息子たちの大きな労力が加わったとき、農夫の仕事は完結し大いなる豊穣の稔りが息子たちにもたらされる。だから息子たちは掘り返すだけで済んだんだ。種も蒔かず、肥料も撒かず、農薬も撒かず、掘り返しただけ。


農夫は種を蒔き、水を撒き、肥料を撒き、害虫退治をして生涯を閉じて、それでも畑仕事を楽しむことが出来た。息子たちは実りを得て仕事の歓びを知り、それで畑仕事に精を出す暮しに入った。楽しみ方・考え方は父と子で異なっていても別段不自由はない訳で、ご馳走を食べなきゃ不幸なアナタが在っても好い。


この寓話は幸せな農夫の後に幸せな息子たちが続く話で目出度しメデタシで、それならやっぱり幸せな息子たちの後に幸せな孫たちが陸続と連なるのが良いと思う。自分の世界で幸せを感じたらそのお返しみたいに自分の子供たちの幸せを援けてあげられたら、それは素敵で良い関係なんだろうなあ。


いやいや、これは不満たらたら言ってる場合じゃない。私は好きなことして生きてる幸せ者だから、、それはあなたもやっぱり同じだと思う訳で、好きなことして生きてるのを否定する人は滅多にいない訳で、それで不満たらたらなら幸せは手のひらから呆気なく飛び去って当然だからなあ、、そんなこと想った。)^o^(


       

チャン・ボリ

韓ドラ「私はチャン・ボリ!」を愉しんで鑑賞していて、ドラマの筋書きは「因果は回る」ってふうに進んでいるみたい…。ヒロイン・ボリは幼いときの事故で記憶が飛んでしまっていて、しかし真っ直ぐな持ち前の天真爛漫な性格のままに暮らしていて、騙されても気持ちの切り替えが早くてグジグジと溜め込むことをせず、積極的で前向きな生き方をしている。
 
事故で記憶を失ったボリは母娘に拾われて育ったが、この義理の姉ミンジョンは小才が利く娘で、世間の汚さの被害者意識を持っているようで、「金が仇」というか、「世間が仇」というか、他者に勝とうとして、自分を見失い、足掻(あが)き・もがいて苦しんでいる生き方になっていて、ボリとは対照的な人格・生き方に描かれている。
 
そう捉えるとき、ボリは主体的に生きていることが分かるし、ミンジョンは主体的でなく客体としての生き方になってしまっていることが分かる。それでどちらが有意義で悔いない人生を送れるか、最早明白ですね。いやあ、韓ドラの持ち味はやっぱり学だなあ!! (*´▽`*)

弱者のための民主主義①

遊びをせんとや生れけむ 戯(たはぶ)れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ

舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん 真に美しく舞ふたらば 華の園まで遊ばせん

‐梁塵秘抄‐

 


上記のフレーズ
ご存知の方は多い。[梁塵秘抄]今様歌謡であって後白河法皇平安時代末期に編んだと伝えられているそうです今様歌謡は「今ごろの流行り歌」で流行歌。「後白河法皇ともあろう御方が流行歌か」と捉えるべきか、流行歌は上流階級から広まったと捉えるべきか、ともあれ、当時の心情を現代に伝える今様歌謡だと言えそうです。

 

人工物の玩具を介する遊びが現代っ子には常態化していて、蝸牛で遊ぶことはなく、馬も牛も生活の場で見掛けることなく、ゴキブリを見つけると殺しまわる現代人に想うのは生活環境に応じて生態を変える人間のようで、しかし昆虫や小鳥や大小の生き物に本能的に反応してみえる姿からは人間の子の本質は平安時代も今もちっとも変っていない。

 

蝸牛を取り囲んで騒いでいる子供たち。押してみたり引張ったり、角を縮めて殻に閉じこもろうとする蝸牛だ。生活の習慣は遺伝子レベルに組込まれて人間の本能となったのだろうか、どの世界でも・いつの世でも子供たちの関心は支配すること。ただ生き延びるだけでなく悦楽の日々を愉快に過すために世界を支配するのが野獣の掟 = 弱肉強食の法

 

他者に抜きんでる力を具えた者たちは弱い者を支配し従えて我が世の春を謳歌できる計算で、実際美味いモノを口にしながら恵まれた環境で他者に崇められて長い年月をヌクヌク過してきた者たちにすればこの美味しい暮らしを手放せなくて弱肉強食を当然のように想ってしまって、相手を弱いと判断したときは野獣の本能を剥きだしにすることになる。

 

このように強い者は己ひとりの力だけでも世渡りできるだろうが、弱い者は弱肉強食 = 野獣の掟では分が合わない。食われ搾取されてばかりでは暮らしは安定せず不安にいつも襲われることになるから、このような劣悪な環境は変えなければやってられないだろ?弱い者たちは弱い者が生きられるように環境を己らの都合の良いように変えるべきなんだな。

 

世界が生存に適しているからこそ強者にとっては弱肉強食の法で居心地が好いが、弱い者の生存に適した環境に変えられたら、そこは弱い者の生存に適した環境・社会だ。いわゆる「適者生存の法則 = 弱い者が安心して暮らせる社会」の実現だ。「適者生存の法則」は弱い者たちに役立つ法であり、[知恵をつけた弱い者たち 市民]と知るべきだろう。

 

弱肉強食の法は個人主義思想へと進み、適者生存の法は集団主義へと進んだと考えるべきだ。西欧の思想は個人主義と集団主義の二つをベースに置くと聴いたことがあるがその通りだと思う。だがこのロジックだけでは問題があって、延いては現代世界の紛争の原因になっているのだから根本的な改善がなされなければならず、革新的な哲学が欠かせない。

弱い者たちよ、市民たるあなたよ、私たちの社会に弱肉強食の法を持ち込ませてはならないよ。この世界は弱者のためには取って置きの優れた法、すなわち民主主義の法であまねく満たさなければならない。民主主義の法は個人主義思想でなく、集団主義の思想でもなく、弱い者たちが良く生きるための優れた智恵・道具であって、多数決などに堕して喜んでいてはならないよ。


約束のない恋(全54話)

韓ドラ「約束のない恋」も昨日で38話までを終え、残すところ16話。このドラマも多くの共感を呼んでいるらしいが、私としてはどう纏めようか。じつは普通に共感することができない私がいる。それでここは私の考えをアリのままに綴っていきたい。十人いたら突きぬけた人が一人、周回遅れの人が一人、残りの八人が普通の人であると考えられるだろう。突き抜けた人は世間の賞賛を浴びているから、世間の称賛を浴びていない私は周回遅れの人と云えそうです。 笑。

世間は価値観を同じくする普通の人が80%を占めていると考えたとき、普通の人の中に紛れ込んでいると好い湯加減の風呂に浸かってノンビリ気分の長風呂しているみたいな安心感・安定感を得られるようで、気の合う者同士で話もはずんで和気あいあいムードが盛り上がってきて、風呂から上がって湯冷めして辛い想いをするのは愚かに想えて、外で寒そうにしている人は愚かに見えてきたりして、それで愈々風呂から上がる気分になれず…と、そんなことが想われる。

共感できない同士、あるいは周回遅れ同士が慰め合ってても詰らないし、そのような間柄で仲好しの輪を作ることも苦手な私なんだ。ドラマにも周回遅れの学者パク・ジェオが登場する。先祖は日本でいう総理大臣を輩出した両班(やんぱん)の家柄で気位は高いが生きることは下手で、その影響を受けて育った娘は真直ぐな性格だがノンビリというか能天気と云うか、息子は真直ぐに生きようとするが、しかし如何に逃れようとしても波は海辺を襲うものだと知らねばならないだろう。

ヒロイン・ヨンソンは荒波に揉まれてヨレヨレになりそうだが持って生れた高い能力で世渡りし・仕事に励む。つまり10人の中の突き出た一人がヨンソンで、早く云えば才媛であるが普通の人に混じって偉ぶらず・愚痴を言わず・勤勉で・健康な体で・見っともない姿でもなく・一人で3人分も5人分も働き・勉強の成績も良くて、便利屋のように周囲の人の役に立つから気に入られる訳で、その才能に嫉妬する周囲がいるのもあなたには理解できるのではないだろうか?

ヨンソンがいくら頑張っても頑張っても、嫉妬する者はヨンソンが憎らしくて足を引っ張りたくなる。いつもいつも足を引っ張られていて、それでもニコニコ笑顔のヨンソンだが、次第次第に「腹に一物」が溜まっていく。ご存知だろうか?「外面菩薩・内面夜叉」の例えがあるが、ニコニコ笑顔の奥に醜い憎悪の心が脹らんでいくヨンソンだ。才媛・美人・スタイル良し・交渉力あり・人に好かれるヨンソンは己に降りかかる災難から逃れるか・生かすか・誤魔化すか・悪道に堕ちるか?

多くの人間は荒波に負けて悪道に堕ち・人間を嫌い・呪い・人間の敵になっていくようです。ドラマでは荒波に負けて悪道を進むイ・サンナムが人々を不幸にしながら権力を得て生き延びる姿を見せるが、サンナムの息子も娘も父に染まって悪道に堕ちる。そりゃあ確かにお人好しは食い物にされて辛い目に遭わされる社会で暮すならお人好しに生きるよりは悪いことして権力を握って総理大臣にでもなれば犯罪しても不逮捕特権が得られる日本は悪の手本でしょうね。

ところで、パク・ジェオの娘スングクはイ・サンナムが愛人に生ませた息子チョンボクと恋に落ちて妊娠する。チョンボクの男らしさに惹かれたスングクのようだがチョンボクは己の身の上を嫌い憎んでいて子供を欲しくない。そりゃあそうだ、己を愛せない男は他者を愛せず・己の子供も愛せなくて当然だろう。己の息子チョンボクを負担に想う母親も息子を愛する気持ちを素直に表すことができない精神障害者というべきで、歪んだ心の両親を持ったチョンボクには違いない。

だからといってチョンボクは幸せに生きることを諦めるべきだろうか? 幸せが他者から貰うものならチョンボクは不幸になるしかないが、幸せは己が築き上げるものであるならチョンボクは幸せになれる筈であり、しかし己の存在を否定されて育ったチョンボクは己に自信を持てなくて当然かも知れない。しかも幸せは奪いとるものでもないからチョンボクはもう絶望的と想われそうだが、それでもなお、人は幸せに生きなければならないという哲学を知らないチョンボクなんだなあ。

というか、このドラマの誰も確たる哲学を持っていないようだ。それゆえに運命に翻弄され流されるしかないのだろうが救いはある。運命に翻弄されるというステップも力強く踏むことで高く舞い上がれるのである。他者を嫉妬したり、楽な方法に逃げようとしたとき人はステップに気づくことができないから、それゆえに奈落の底に真っ逆さまに落ちるのであり、ゆえに人は決して僻んだり妬んだり恨んだり呪ったりしてはならない。そんな大事を観ようとせずに長湯しては風邪をひく。

題名「約束のない恋」の意味は分らないが、私が勝手に解釈するなら、どのような恋であっても幸せの結末の約束を他者から取り付ける意味はなく、はた目に素敵な恋も・傷つけられた恋も・実らない恋であっても幸せの約束は己がする以外にないのであり、すなわち、己が己の幸せの責任者であるゆえに、確実な約束の履行が期待できるのでありましょうなあ。他の誰かに己の幸せを丸投げするなんて、そんな詰らない恋は絶対にするべきでありません。いやいや、素敵なドラマです。
 
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